三国の残照  【三国志演義】

W.あの人達のその後

 「三国志演義」の後半に登場した重要人物達は、孔明の死後に一体どんな結末を迎えたのでしょうか。簡単な紹介と孔明死亡時の年齢、そして小説で最後に遺した言葉。

 

【孫権】・・・182年〜252年
 53歳。字は仲謀。曹丕、劉備に続き、呉を建国して皇帝となります。これにより三国鼎立時代が始まりました。若くして帝位に就いたことから治世も長期に及んでいます。
 若い頃は決断力や人を見る目もあり、名君と呼んで差し支えなかったものの、晩年は後継者騒動を起こして国を弱らせるなど、判断力の衰えが目立ちました。

 演義では死ぬ時に簡単な描写がある程度で、最期の言葉も無く、およそ英雄の死には程遠い扱いとなっています。享年71歳。
 

「朕がもし前約にそむかば、子孫は絶えよ!」

 

【陸遜】・・・183年〜245年
 52歳。字は伯言。蜀の孔明、魏の司馬懿に匹敵する軍才を持つ名将。孔明死後も魏や蜀に対して睨みを利かせ、国防の要となっていました。
 孫権の後継者騒動を見かねて進言するも、既に耄碌した孫権から逆に嫌疑をかけられてしまい、悲しみのあまり憤死しています。国家の忠臣としては余りに哀しい最期ですが、孫権がその死を悼むのはかなり先のことです。

 演義での描写は孫権よりさらにお粗末。孔明死後の活躍は一切描かれておらず、むしろ孔明より先に物語から退場しており、いつの間にか死んだことになっています。享年63歳。
 

「敵はうごかないでしょう」

 

【曹叡】・・・205年〜239年
 30歳。字は元仲。曹丕に次ぐ2代目の魏帝。孔明死後、程なくして突如ご乱行にふけり始めます。そしてアッサリ病死してしまいました。

 演義においても乱行や最期のシーンは描かれています。司馬仲達に後事を託して逝きましたが、結局彼にクーデターを起こされてしまいます。享年36歳。
 

「どうかこの子のこの気持を忘れないでもらいたい」

 

【司馬懿】・・・179年〜251年
 56歳。字は仲達。孔明亡き後の主役の一人。公孫淵討伐やボケ老人の芝居、そしてクーデターと奮迅の活躍を見せます。魏の実権を握ると、息子2人にキッチリと道を作って死亡しました。

 孔明の志を挫いたせいか、演義ではかなり不当な扱いを受けています。それでも上述のエピソードは収録されており、孔明死亡から4回ほどで退場しました。享年73歳。
 

「また、決して気を許すなよ。」

 

【劉禅】・・・207年〜271年
 28歳。字は公嗣。劉備の息子にして2代目の蜀漢帝。降伏後は魏で安楽公の地位を与えられています。
 生来のお坊ちゃま気質が幸いしたおかげで、亡国のプリンスとして警戒されるようなことは全くありませんでした。そのため無事天寿を全うしています。

 演義においてはフィクションも交えてそのダメっぷりがかなり強調されており、今では暗君の代名詞となってしまいました。享年65歳。
 

「はい、仰せのとおりで」

 

【姜維】・・・202年〜264年
 33歳。字は伯約。孔明亡き後における実質的な主役。孔明の軍事面における後継者であり、師・孔明の果たせなかった北伐を成功させようと、師を上回る出兵を行いました。
 しかし要職にありながら国政を疎かにしてしまったため、結果として蜀はガタガタになり、滅亡の遠因を作っています。

 演義において姜維の奮闘ぶりは詳細に描かれており、蜀滅亡後も再興に向けて奔走しています。鍾会やケ艾といった名将を手玉に取ろうと画策しましたが、結局目的を果たせずに謀殺されてしまいました。享年63歳。
 彼の死により、演義のストーリーも事実上の終幕となっています。
 

「わが計成らず。これも天命!」